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據(jù)庫(kù)案例
 

日本譯者談“誤譯”以外的問(wèn)題翻譯

2016-10-26 | 責(zé)任編輯:admin | 瀏覽數(shù):1192 | 內(nèi)容來(lái)源:本站編輯發(fā)布

私は1990年代に1年半イギリスのスコットランドに滯在し、その後で日本に帰ってきた時(shí)、翻訳書(shū)でいっぱいであると改めて気づかされた。何をいまさらと言われるかもしれないが、そう、われわれは翻訳文化の國(guó)にいる。自分のものを外國(guó)に輸出するより、熱心に外國(guó)のものを紹介し學(xué)び続けているのである。でも翻訳がなければどうだろう。ロシアの文學(xué)本も、ドイツの思想書(shū)も読むことはできない。それを考えれば、翻訳があることはたしかに便利でありがたい。

90年代我曾在英國(guó)蘇格蘭呆了一年半,之后回到日本時(shí),再次意識(shí)到這兒遍地都是翻譯書(shū)籍?赡軙(huì)有人覺(jué)得我大驚小怪,確實(shí),我們身處在翻譯文化國(guó)度。即比起向外國(guó)輸出自己的東西,更熱衷于不斷介紹并持續(xù)學(xué)習(xí)外國(guó)的東西。但如果沒(méi)了翻譯會(huì)怎樣呢?那么不管是俄國(guó)的文學(xué)書(shū)、還是德國(guó)的思想書(shū),都只會(huì)是天書(shū)。這么一想,有翻譯存在確實(shí)方便且值得我們慶幸。

他方、こういうことがある。ある研究會(huì)でイギリス経済學(xué)の古典の解釈を聞くことがあった。その時(shí)に報(bào)告者は當(dāng)の経済學(xué)者が書(shū)いた別の本をあげて、その訳書(shū)が何を言っているかさっぱり分からないと漏らすことがあった。思うに、それには2つの原因がある。1つはその古典の性格からくることであって、われわれ日本人はイギリス経験論の手法に馴染みが少ない。もう1つの原因は、翻訳がまずいことである。翻訳は大変な努力を要するのであるが、読者に本を閉じさせては何のための翻訳かとなる。私も當(dāng)の訳書(shū)には報(bào)告者と同じ感想をもっていた。本當(dāng)に分かりたければ「原書(shū)」――原書(shū)と言う言葉そのものがおかしいのだが――を読んだ方がいいと言いたくなるが、それでは翻訳する意味はない。私が問(wèn)題にするのはいわゆる誤訳のことではない。語(yǔ)學(xué)的にいくら「正確」な訳であっても、ヨコのものを逐一タテにするだけで、読み手に內(nèi)容を著者に代わって伝えようとすることのない訳、これが問(wèn)題である。訳者に自分で読んでみてくれ、分かるか?と言いたくなることがある。つまり訳文が常に「原文」を思い起こさせ、われわれの言葉、「日本語(yǔ)」になっていないことがある。

另一方面,還有這樣的情況。我曾在某次研究會(huì)上聽(tīng)取關(guān)于英國(guó)經(jīng)濟(jì)學(xué)的古典釋義。當(dāng)時(shí)匯報(bào)者例舉出了那位經(jīng)濟(jì)學(xué)家的另一本著作,稱那本譯書(shū)完全不知所云。我想原因有二,其一是源于日本人的古典性格,我們不太能適應(yīng)英國(guó)的經(jīng)驗(yàn)論手法。其二則是翻譯糟糕。翻譯是很需要下功夫的事,但如果讀者都不待見(jiàn),做來(lái)又有何價(jià)值呢?對(duì)于那本譯書(shū),我和匯報(bào)者想法是一致的。如果真想弄個(gè)明白,去讀原著(當(dāng)然原著這詞本身就很怪)就行了,只是這樣一來(lái)翻譯就沒(méi)了意義。我覺(jué)得問(wèn)題并不在于所謂的誤譯,而是這樣一種翻譯,它盡管從語(yǔ)言學(xué)角度來(lái)說(shuō)十分“正確”,事實(shí)上卻只是變了種說(shuō)話形式,而忽略了要代替作者向讀者傳遞內(nèi)容這一目的。有時(shí)候真的想問(wèn)問(wèn)譯者,你倒是自己讀讀看,能讀懂嗎?也就是說(shuō),這類譯文并沒(méi)有變成我們自己的語(yǔ)言“日語(yǔ)”,而是常常讓人想起原文。

それとはまったく反対の訳はある。最近の経験であるが、ポール・ド・クライフンの『微生物の狩人』を秋元壽恵夫の訳で読んだ時(shí)である。最初の一行からまったくなんの障害もなくすっと入り、その世界にひきこまれてしまった。著者がアメリカ人であることをまったく感じさせず、直接われわれ日本人に語(yǔ)っているかのようであった。訳文がそのまま「原文」となっているのである。元の英語(yǔ)がよい文章であったかもしれないが。そんなわけで微生物學(xué)史の世界を何の苦もなく歩きまわることができた。それと比べると、たいていの訳書(shū)は訳文と「原文」との間がしっくりせず、読んでいて隙間風(fēng)を感じることが多い。

另外還有完全與此相反的翻譯。這是最近我讀秋元壽惠夫所譯的保羅•德•克魯伊夫著作《微生物獵人傳》時(shí)感受到的。這書(shū)第一行讀來(lái)便如行云流水般流暢,讓人不覺(jué)間被帶入那個(gè)世界。我完全感覺(jué)不到美國(guó)原作者的影子,而是仿佛有人面對(duì)面向我們?nèi)毡救耸稣f(shuō)著一般,可以說(shuō)是譯文如原文。當(dāng)然或許是英文原文本就比較出色。這么一來(lái),我便能在微生物史世界里毫無(wú)障礙地踱來(lái)踱去。相比之下,大多數(shù)譯書(shū)都沒(méi)好好把握住譯文與“原文”之間的平衡,很多時(shí)候讀起來(lái)總是覺(jué)得別扭。


 
 
 
 
 
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